元花王デジタルマーケティングセンター長 石井龍夫氏
1980年に花王に入社されてから、30年以上マーケティングの第一線で活躍されていた石井龍夫氏。営業とエリアマーケティングを経験した後、メリーズ、ロリエ、ビオレなどの名だたる商品のブランドマネージャーを歴任。その後デジタルマーケティングセンターを設立し、花王全体のデジタルマーケティングを管轄されていました。マーケティング実務はもちろん、デジタル領域にも深い知見をお持ちの同氏に、マーケティングとは何か、そしてこれからのデジタルマーケティングについて伺いました。
――石井さんの今までのご経歴について、伺ってもいいでしょうか?
私は、1980年花王に新卒で入社し、退職までの37年のうち33年間はマーケティングの仕事をしてきました。最初はいわゆる営業部門に所属し、福島で、花王製品専売の販売会社の経営支援をするかたわら、小売店やスーパー・卸店への営業活動をして、流通について学ばせて頂きました。その後仙台へ移り、東北エリア全体のエリアマーケティングを担当し、売上管理と販売の現場感覚を身につけました。
その後は東京へ戻り、ブランドマネージャーとして、メリーズ・ロリエ・食器用洗剤・ハイター・マジックリン・ビオレなどのブランドの製品開発や戦略立案・広告制作を経験しました。
――様々な分野にわたって活躍されていたかと思いますが、ここまで広く経験されるのは特別だったのでしょうか?
花王という会社がまだ小さかったからでしょうね。今は会社の規模も大きくなり、採用も部門採用ですので、専門性は高いですが、視野は狭くなる傾向があると思います。 一般的に、マーケティング部という部署のある会社でも、広告宣伝のみを担当していたり、プロモーションだけが業務だったりする例がありますが、花王のマーケティング部門は、商品開発からコミュニケーション、販売促進まで全てに関与します。
花王は消費財の会社ですが、業態からするとBtoBtoCです。ですから、直接の顧客である小売りも、エンドユーザーであるお客様も知る必要があるのです。どのような人が自分たちの商品を販売して下さっているのか。お客様がどのように商品を選んで購入し下さっているのか。そういったことを理解したうえでパッケージデザイン・能書・広告なども適切に作成していかないといけない。全体に関与してはじめて本当のマーケティングができるんですよ。
――ということは、小売りと相対していた営業経験も、その後のマーケティング活動に活きているということですか?
勿論、全部つながっていると思います。ブランドマネージャー時代に、店頭でのお客様の購買行動を見ることの大切さを学びましたが、デジタルマーケティングの部門に移った時、WEB上の行動履歴やログを読むことで、店頭でお客様お客様の購買行動を観察することと同じようなことがより大規模に行え、顧客理解が一層深まるのではないかと考えたんです。
様々な経験を通してマーケティング活動全体を理解した後に、特定の分野を深堀できたことは自分のキャリアで良かった点だと思っています。
――マーケティングとは何でしょうか?
マーケティングは企業活動全体と同義だと認識していますが、実務的にはマーケティングとは「人を動かすこと」だと思っています。
ブランドマネージャーは担当するブランドのPLから商品開発、ブランディングなど、全てに責任を持っているとは言いつつ、1人で全てができるわけではありません。関連する部門の人たちに自分が目指すブランドの世界観やビジョンを見せて、納得・共感してもらい、それに基づいて動いてもらう、ということが必要になってきます。
そのためには、何より現場の仕事を知らないといけません。マーケターはエンドユーザーを知るだけでなく、社内で様々な活動がどのように行われているのかを理解する必要があります。
研究開発部門の人達がどのようなアイディアを持っているか、何に困っているか。生産部門や広報の人たちが課題と思っていることは何なのか。そういうことを知っておかないと適切な指示はできないですし、もとより共感を得ることも出来ません。
マーケティングの役割は「市場創造」です。お客様が欲しい商品やサービスを創り出しそれを買いたい気持ちになって頂くためにはどうするかを考えることです。
ですから「シェア争い」は市場創造ではありません。小売店の棚を取り合うのでは無く、売り場に来て、商品を手に取るお客様を増やすことこそが市場創造です。新たな商品やサービスで需要を創り出す、これまで、その商品の必要性を感じていなかったお客様に必要性を理解頂き、手に取って頂くことこそ市場創造だといえます。
――今までのご経験の中で、「市場創造」のマーケティングの事例はありますか?
私が担当したブランドの中では、「ビオレさらさらシート」という商品は市場創造のマーケティングが成功した商品でした。
それまでの制汗剤は、汗のにおいが気になる人が使う商品でした。そして、スプレーしたときの一瞬の冷感の気持ちよさが使い続ける理由だったのです。
それに対して、ビオレは、防臭スプレーではなく、不快な汗を手軽に落とし、清潔にする「汗拭きシート」として、女子高校生のマストアイテムにするためのマーケティングを行いました。
商品は部活のロッカーや自宅の洗面台に置きたくなる可愛いデザインのパッケージにして、広告は電車のステッカー広告を活用し、汗が気になる通学時間帯でターゲティングしました。
結果として、朝のシャワーのかわりに汗を拭きとりさらさらにする、部室で汗を拭きとり爽快感を得る、様々な使用シーンを提案し、新市場を創ったのです。その後様々な香りやバリエーションが発売され、市場は一層大きくなっていますね。
――マーケティングは人を動かすこと、というお話がありましたが、マーケターにはどのようなことが求められますか?
この人のためなら動いてやろうと思ってもらえる、そういうマーケターの「論理的説得力」「人間的魅力」ってすごく大事ですよね。
――「人間的魅力」はどのようにすれば備わるものでしょうか?
これは顧客理解と同じですよ。現場の状況、相手の状況を理解することが大事です。工場や研究開発部門が今どんな仕事をしていて、どんな苦労をしているのか。そういうことをちゃんと理解したうえで、一緒に仕事をすればおのずと備わっていきます。
私がアジエンスを開発していたとき、創り上げたたいブランドイメージと連動するために、トリートメントのチューブの底を斜めにしたい、と工場部門に要望したことがあります。当然、生産効率が落ちるので真向から否定されました。
しかし、ブランドにとって斜めのデザインが絶対に必要なんだ、ということを論理的に粘り強く伝え続けた結果、最終的には「石井さんがそこまで言うなら」と、了承してもらえました。
この熱意が伝わったのも、普段から彼らを理解しようと努めた姿勢の結果だと思います。
――石井さんはデジタル領域にも深く携わっていらっしゃいましたが、昨今のD2Cなどの動きをどのように見ていますか?
メーカーがお客様と直接つながろうというのは、正しい流れだと思っています。
お客様に今、何が求められているのか一番知っているのは、流通です。例えば、アマゾンは購買履歴に基づく豊富なデータでお客様のことをすごく理解していて、アメリカでは、プライベートブランドとしてアマゾンオリジナルの商品を数多く出していますよね。お客様に取っては良いことでも、このままではメーカーが流通の下請けになってしまう可能性があります。
流通業は、今何が求められているのかを購買データで知っていますから、メーカーにとって重要なのは次に何が求められるのか、どのようなライフスタイルになるかを予測することです。
だからこそ、メーカーがお客様を理解する、直接声を聴くということが必要で、それにはアプリ、直販EC、コミュニティ運営、いろんな方法があるでしょう。D2Cを単なるEコマースと捉えてはいけませんね。購買データの取得だけでなく、コミュニティやSNSでのコミュニケーション、デジタル広告での高速PDCA、これらをスピード感をもって行うことがD2Cなんです。
――このような流れの背景には何があるのでしょうか?
一言でいうと、お客様の変化が早く、かつ激しくなったことでしょう。今のお客様の変化をスピード感もってつかむためにはデジタルの施策が適しています。
また、COVID19の影響もあると思います。これを経験することで、我々は、昨日の続きが今日とは限らないということがわかりましたよね。優れたマーケターは、今後は過去データによる予測だけでなく、変化した今を即座に捉える事、そして変化に対応するスピードこそが重要だと学んだのではないでしょうか。
そのためにはデジタルシフトが必要ですし、世の中の変化をいち早く捉え、変化のスピードに対応できるように事業や企業の変革をすることこそがデジタルトランスフォーメーション(DX)だと思っています。
デジタルの話に関連しますが、マーケターは科学的になる必要があります。情報システム部門とマーケターは対立しやすいですよね。マーケターは右脳で感性的、情報システム部門は左脳で論理的というか。
今日マーケターが見るべきデータ量はビッグデータ化しています。これまでのように、経験値で判断するのでは無く、システムを活用してデータを扱うことで新しい発見をする、データを適切によむ力が必要です。システム的な知識や統計的な知識も必要かもしれません。
私はデータサイエンティストの部下に対して「データを深堀してみるのはいいけどたまには俯瞰して大きい視野をもつように」とよく言っていました。
高いところから俯瞰してみて、違和感を見つけそこを更に深掘りする。この、入って引いてを行えるマーケターが必要なんです。
そのためにも、マーケティング部門だけでは無く幅広い業務を体験すべきですし、それが出来なくても常日頃から、自分を取りまく環境へ関心を持つことが重要でしょう。
――ビッグデータに強くないマーケターも多いと思いますが、そういう時はどうすればいいでしょうか?
自分たちで仮にできないとしたら、そういうことができるパートナーを知っていればいいんです。そういうパートナーがいるということが、そのマーケターの引き出しになります。
大手企業のマーケターにありがちですが、他社のマーケターとのつながりがなく、代理店としか付き合いがない、という人達がいます。そういう人は同業や異業種の人と接することの出来るコミュニティに参加し、議論をすべきですね。世の中give and takeですから、価値ある情報を入手するには、自分が他人の役に立つ人になる必要があります。
特に新人のマーケターは自社内のステークホルダー以外にも、外部のマーケターやパートナーとのコミュニケーションを取ることで、視野を広げることが重要ではないでしょうか。
――今、石井さんが注目されているトピックはありますか?
クッキーレスには注目しています。クッキーレスは、デジタルマーケティングの未熟さの問題だと私は考えています。
そもそも、なぜクッキーが使えなくなるかというと、興味もない広告が追いかけてくるのをお客様が不快に思ってしまったからです。個人に適した広告を最適なタイミングで出すことができていれば、問題にはならなかったはずですよね。お客様が必要になったタイミングで「サービスする」のではなく、必要でないのに「売りつける」行為になってしまっているのが原因です。クッキーが悪いのではなく、それを利用したサービスが適切でなかっただけで、デジタルマーケティングの仕組みの未熟さが露呈した問題でしょう。
個人情報って必要でしょうか?
Webサイトで訪問者を理解する時、住所や名前といった訪問者の個人情報ではなく、どうやって訪問してきたのか、なぜ訪問してきたのか、他にどのようなページを閲覧しているかを理解出来れば良いのでは無いでしょうか。
誰であるかと言うことより、どのような事をしたい人なのかを知ることの方が重要です。つまり、個人の解像度ではなく、背景の解像度を上げるということですね。
背景の解像度を上げれば、ベストなタイミングで、ベストな提案ができるようになるはず。それこそ、顧客を第一に考え、その真の望みや希望を実現するという本来のマーケティングの姿ではないでしょうか。
クッキーレスだから大変、と言っている場合ではないんですよ。「売りつけ」はNG、「欲しくなるもの」を「欲しいタイミング」で提供すること、そのための仕組みを作ることが求められています。システム的にできないと言い逃れをするのでは無く、お客様にとって最適なサービスを提供することこそが本質なので、それを実現するために自分たちで開発する、開発できるパートナーを探すということを真剣にやっていかないといけない時期に来ているのです。
<Profile>
石井龍夫氏
1980年花王に入社、販売部門経験の後、事業部門でブランドマーケティング業務に14年携わり花王の主要ブランドのブランドマネージャーを歴任。 2003年以降、web作成部長を経てデジタルコミュニケーションセンター長として、花王のデジタル活用に携ってきた。その後、2014年にデジタルマーケティングセンターを新設し、2017年1月に退任するまで花王のデジタルマーケティング活動を統括。
現在は、C Channel株式会社の監査役、株式会社イーライフのエグゼクティブアドバイザー、アドビのエグゼクティブフェローを務める一方、日本マーケティング協会のマーケティングマイスターや広告電通賞ブランドエクスペリエンス部門の審査委員長、日本アドバタイザーズ協会のデジタルメディア委員、早稲田大学大学院経営管理研究科非常勤講師、マーケティング国際研究所の招聘研究員でもある。